他人から認められようとする意識

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02 /27 2008
PANDORAで今ホットな話題の意識レベルの話しについてまた再考しました。自分についてです。

<他人から認められようとする意識>から
>他人から褒められよう認められよう尊敬されようと思うのは低い波動です。

ハイ,これです。私は人を見下す事はない(全くかといわれると自信ないですが,基本的には)のですが,特に認められたい気持ちがあります。
それはとことん自分に自信がないからです。自分で認められない分,人から認められたら自分にも自信がつくのではないかという屈折した心根です。自分でできないので人を頼ってるんですから軟弱者です。
言い訳しても低いものは低いのでやはり手放そうと今努力中です。しかし染み付いたものはなかなかですね。ふと振り返ると,「認めて欲しい菌」に感染している私がいます。
気付いては退治のもぐらたたき状態です。

↑のように人を通して自己認識しようとすれば他人というフィルターがかかり真の私の意識向上はどうしてもゆがむような気がします。自分を高めたいという素晴らしい気持ちも何かまやかしが入るような。

「己を高くする人」が悪いのか私には分かりませんでした。これは「人を見下す」とセットになりやすいから要注意なのだと思いました。では見下さなければいいのか??


以前は人に対する思いやりも常にそういう風に考えていれば「習い性になる」ではありませんが身につくからいいのではないかと思っていましたが,考えを改めました。

<結果にムカついた挙句、最終的に悟った人>(2008年2月27日)にもありました。
「器用に人に優しく」というあたりです。同じところに引っかかりました。くさいけど「愛がなければ」です。けれどこの「愛」が曲者です。小さな愛だと愛のようで愛でなくなるときもある様だから。慈悲,が一番なんでしょうがそこに達するにはなかなか・・・

幼児~小学校~中学と成績でずっとバカにされていたので生きる価値がないと信じていました。高校のときは成績ではなくいい様にあしらわれてました。

これは自分を見下していたのでやはり自分に返ってきた例だと今は分かります。他人だけでなく自分にも出した波動は自分に返るのが昔は分からなかったので悩みました。少しずつですが階段を上がっていると思うのですが,遅すぎて情けないです。

日々自問してクリアにしていくしか本当に「分かる」境地に達しないのだと,ここまでは分かりました。
後は実践。?昨日の記事もこの言葉で締めくくりましたっけ。最近この言葉,多いような気がします。

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でりあ777

この絵はPANDORAで描いて頂いた「私の本質」
魂の故郷シリウスだそうです。